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第20回 震災から5年 女川町地域医療センター

 2011年3月11日に発生した東日本大震災。東日本の太平洋岸を襲った大津波などで約16,000人もの方が亡くなられ、現在も約2,500人の方々が行方不明になられております。被災されました皆様に、心よりお見舞い申し上げますとともに、犠牲になられた方々とご遺族の皆様に対し、心よりお悔やみ申し上げます。

震災前の女川町立病院

 2011年4月に地域医療振興協会(以下、「協会」とする)が指定管理者として運営開始が目前であった当時の宮城県にある女川町立病院(以下、「病院」とする)も津波による壊滅的な被害を受け、協会も病院を中心とした女川町への支援を行いました。
 震災前、女川の街は港からほど近い場所に町役場や病院、駅や商店街が位置し、港を中心に街が形成され、多くの住民の方々が生活されていました。そこに、18m超とも観測された(建物の高さにして6階分はあろう)大津波が押し寄せ、街に甚大な被害をもたらしました。

 病院は海抜16mの高台にありましたが、1階の天井近くまで海水が流れ込み、病院としての殆どの機能がわずか数分間で失われました。4月からの運営開始に向け、既に病院で準備業務を開始していた協会職員の中には、院内で津波にのまれ流されそうになりながらも救われた者もおります。
 病院職員の中には、自身は無事避難できたが、自宅家屋が流されたであろう職員や家族の安否が確認出来ない職員等、職員の殆どが被災者であったにも関わらず、患者様や病院に訪れる方々のために対応を尽くし、被災直後から医療活動等を行いました。協会も震災後間もなく医師・看護師をはじめとする全ての職種の派遣を行い、それまで常勤医師と病院職員だけで懸命に行っていた活動に対し、4日後(3月15日(火))からの支援が開始されました。

 2016年3月、未曽有の震災から5年の月日が経ちました。被災地以外の地域では、震災は過去の出来事となり、日常の話題にのぼることは少なくなっているかもしれません。しかし、現在も元の自宅から離れた場所での生活を余儀なくされている被災者は多く、女川町では今もなお約900戸の仮設住宅が使用されています。それら仮設住宅は町内だけではなく、隣接する石巻市にも大規模なものが設置されています。
 

※平成28年2月1日現在 仮設住宅世帯数871世帯(うちみなし仮設住宅275世帯)

 病院は2011年10月から女川町地域医療センター(以下、「センター」とする)として、有床診療所(19床)、介護老人保健施設(100床)からなる複合施設に再編され、協会による運営が始まりました。
 現在は、センター所属の医師により、住民の方々の健康維持や震災後の精神的な支えになるよう、町外の仮設住宅や有人離島(出島、江島)への巡回診療も行っております。

震災当時から従事するセンター職員3人に話を聞きました。

齋藤 充 管理者 兼 センター長

 私は、震災前の2010年4月に、協会からの派遣医師として当時の女川町立病院に着任しました。震災直後、病院の周囲は見渡す限り瓦礫の山でしたが、少しずつそれらが片付いていき、その後山を切り崩し、街中心部の地面がかさ上げされ、昨年は女川駅が再開しました。駅周辺にはお店(プロムナード)が出来、毎日女川で過ごしている我々でもその日々の変化に驚くくらい、現在でも街の様子が刻一刻と変わっています。住民の方々も、最初は多くの方が避難所で生活されていましたが、仮設住宅に移られ、そこから復興住宅や今後は自立再建住宅に移るといった形で、ようやく落ち着いた生活を取り戻していかれるのではと思います。

 一方、人口構成もこの5年で変化があり、復興に向けて変化する街の様子とはうらはらに、住民の方々の実際の生活はまだまだ元に戻っていないという印象があります。私自身それらに向き合いながら、自分達に何が出来るかを考えつつ、日々患者様と接してきたあっという間の5年間でした。
 

※震災前1万人の人口が、現在では6,800人強まで減少し、年少人口及び生産年齢人口の減少、高齢化率の上昇などがみられてきました。

 震災以降の女川では、行政はもちろんのこと若い方々や中学生までもが復興に向けて自ら活動されていて、我々も遅れを取らないよう精一杯歩んできました。震災直後には、5年後にこの様な状況までになるとは想像できませんでした。これは住民の皆さんの団結する力があったからこそ成し得たものと思います。
 震災後、本当に多くの方々にご支援いただきました。皆様への感謝の気持ちは言葉ではお伝えしきれないくらいです。
 今後の新たな取り組みとしては、この4月に「Joccoおながわ」という愛称で、病児・病後児保育を開始する予定です。これは、女川にゆかりのある小児科の今野友貴医師が2013年4月に着任してくれたところが大きいのですが、若い世代の方々が「女川で安心して子育てができる、安心して暮らせる、戻って来られる」よう、センターとして少しでもお手伝いが出来ればと思い始めるものです。
 

※じょっこ(Jocco)とは、女川地域の言葉で「可愛い大切な(子供)」という意味です。

今後はこの地で若い医師を育てたいという気持ちがあります。被災地という特殊な状況下だからこそ学べることも多いと思います。女川で共に地域医療を続けてもらえる若い先生方の研修をサポートが出来ればと考えております。

庄司 勝 副センター長 兼 介護老人保健施設長

 私は、齋藤管理者と同じく2010年に病院に着任しました。震災当日、病院2階から津波が港に押し寄せる状況を見て、「もしかしたらこの丘の上まで来るかもしれない」と思い、病院の1階に向かい皆様の誘導をしていたところ、自分も津波にのまれました。その瞬間は助からないかとも思ったのですが、何とか逃れることが出来ました。
 私自身の難もありましたが、自宅が石巻駅近くにあり家族の安否確認も出来ず、震災直後は苦しい数日間を過ごしました。幸いにも家族は無事であったのですが、家は津波で失いました。震災後すぐに協会の先生方が女川まで駆けつけていただいたおかげで、家族に会いに行くことが出来たことを、今でも心から感謝申し上げる次第です。

 着任時より病院では外科を、そして併設する介護老人保健施設(以下、「老健」とする)の施設長も担当しておりました。老健では震災後に入所者様が怪我をされたり、パニックになるようなことはなかったのですが、3月11日以降も女川は余震が酷く、その不安や心労により利用者様の体に少なからず負担があることを医師として感じており、震災後から1年位はその対応にもあたっておりました。併せて、入所者様の多くも津波で家を無くされ、「帰るところがない」といった状況が長く続き、震災から3年過ぎた頃からようやく仮設住宅ではありますが、在宅復帰する方が出始めました。

 着任して6年、そして震災後の5年のというのは、震災に関係する事を含め、老健を含む地域医療に触れた時間でした。他の市町村に移られた後、「海を見て暮らしたい..」ということで女川に戻って来られた方も多くいらっしゃいます。地域の方々に住み慣れた場所で、在宅を含め少しでも安心して暮らしていただけるよう、今後も頑張っていきたいと思います。

長 かおる 看護介護部長

 この5年間、とても早かったように感じております。
私の自宅も床上まで浸水はしたものの翌々日には家族の無事が確認できました。看護職員の中には震災当日に小さい子供を家に残しており、安否が分かるまでは泣きながら業務していた職員もおりました。順次安否確認に一時帰宅をしましたが、殆どの職員は泊まり込みながら1か月間くらいは合宿生活のような毎日でした。
 震災直後、病院まで避難してきたものの避難所では過ごせない介護が困難な方には、介護するために病院に残っていただいたり、病院で治療が終わったが避難所以外帰るところなくかつ介護が必要な方には「避難者」として院内の場所を提供し、ご家族に介護の協力をいただきました。暫くの間は「入院患者」、「入所者」、「要介護避難者」と「家族」という区分けをしながら運営しておりましたが、当時の病院職員だけではもちろん人手が足りませんでした。震災後間もない時期からたくさんの協会職員の方々にサポートしていただいたからこそ頑張れたことであり、今でも大変感謝しております。

 その後、復興工事も進み環境の変化で患者様の生活が変わり、その時々での患者様の悩みも変化してきています。「私たちはどう関わっていけば良いのか」、看護師も町の復興状況や周囲の変化を見ながらサポートしていくこととなりました。現在の職員だけを見ても、今でも仮設住宅に住んでいる者や、津波を思い出し「海が怖い..」と言う者もおります。5年前から少しずつ薄らいではいるけれども、全てにおいてまだまだ時間は掛かると思われます。生活環境がなかなか整わない患者様や住民の方々の気持ちも感じ取りながら、これからも日々業務しなければならないと思っております。

 今後は、高齢者福祉の充実だけではなく、女川を「子供を産み育てられる街にしていきたい」という町の想いもあり、センターも病児・病後児保育の開始に向け準備を進めております。
 また、様々な問題を抱え生活している方が多くいらっしゃるので、現在、仮設住宅での相談業務も行っておりますが、住民の方々の健康や生活を守るためにも、行政や他の医療機関、介護サービス提供事業者との「連携」や医療・介護・福祉に関する「相談」といった部分を充実させたいという希望もあります。
 そして、女川は原子力発電所がある町ですので、これからは自然災害だけではなく、原子力の災害が起きた際にどう対応するかということも考えながら活動していかなければなりません。

最後に、以前からの過疎地でかつ震災があった沿岸部は、宮城県内でも看護師、介護士等の職員が集まり難い状況が今も続いていますが、地域医療を守るために職員皆で力を合わせて進んでいきたいと思います。

 女川町には震災前、約1万人の方々が住まわれていましたが、現在は6,800人強となっております。職員の話にもありましたとおり、若い方々やお子さんにも安心して暮らせる街づくりを目指し、センターも住民の方々と共生し、「新しい女川」に向けて復興への歩みを進めていきます。


 震災から5年となるこの3月、女川の街は鎮魂の早春を迎えます。

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